2024年08月16日 1834号

【哲学世間話/真理は全体である】

 東京都知事選での「石丸現象」について、ここで改めて論じるつもりはない。ただ、それに関連してよく話題に上るSNSという媒体の特性について、一言付言しておこう。

 SNSによる情報伝達は、個別的な出来事や課題の伝達にはたしかに強力な威力を発揮する。情報は一気に、きわめて多くの人に伝わる。また情報が無限に増殖することも起こる。

 しかし、SNSは多くの個別的出来事や政治的課題の間の「つながり」、連関を伝えることはできない。すくなくとも、この媒体の特性上それはかなり難しい。

 だが、政治の世界だけでなく、どんな世界においても、「個別」はそれ単独ではたいして意味をなさない。それはせいぜい「事の一端」にすぎない。

 むしろ重要なのは、多くの「個別」と「個別」をつないでいる全体的連関のほうである。この連関が「事の全体」を表している。その意味で「真理は全体なのである」(ヘーゲル)。エンゲルスも『空想より科学へ』で、「個々の事物」よりも変化・運動している「全体の姿」を重視するのが、「弁証法的な」ものの考え方の根本特徴であることを指摘した。「世界を見る」とは、世界の全体的連関を見抜くことである。

 ところが、SNS以外の媒体(新聞、雑誌、テレビ等)にほとんどアクセスしない人びとは、しばしば「木を見て、森を見ない」。それどころが、一本の「木」を「森」全体だと思い込みがちである。「事の一端」を「全体」だと思い込む傾向がある。

 たしかに、選挙活動などではシングル・イッシュー(個別的政治課題)を前面に出す場合があり、功を奏す場合もある。だが、それが「功を奏す」ときは、その「個別」のうちになんらかのかたちで「全体」が読み取られているのである。

 この場合、「全体」とは、政治と社会「全体」の在り方に対する、候補者の基本的姿勢のことと言ってよい。重要なのは、主張されている個別的課題の変革が、政治と社会「全体」の在り方の変革、「体制」変革としっかり結びついているか、否かを見抜くことである。

 選挙や政治活動においてSNSの意義を全面否定するのも、それを無条件に礼賛するのも誤りであろう。ただ、一つ言えることは、その活用は、「真理は全体である」という観点を忘れてはならないことである。

(筆者は元大学教員)
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