2025年03月28日 1864号

【東京大空襲から80年/「非人間化」による大虐殺/ガザ攻撃に相通じる思想】

 1945年3月、米軍は日本本土に対する本格的な戦略爆撃を開始した。その目的は一般市民を殺すことだった。焼夷弾爆撃によって市街地を一気に焼き払い、生産能力を奪おうとしたのである。あれから80年―。空爆による市民の虐殺は今も世界で続いている。

炎に包まれた下町

 1945年3月10日深夜、米軍の大型爆撃機B29約300機が東京上空に飛来し、市街地に大量の焼夷弾(32万7千発)を投下した。人口密集地を標的にした「夜間・低高度」による焼夷弾爆撃の始まりである。

 使用されたのは日本の木造建築向けに開発された焼夷弾「M69」で、屋根を貫通したのち天井裏にとどまり発火する仕掛けだった。米軍は実物大の日本家屋を建設して燃焼実験をくり返すなど、住宅地を「効率よく焼き払う」ための研究を重ねていた。

 降り注いだ焼夷弾によって東京の下町は炎に包まれ、2時間半の爆撃で少なくとも約10万人が死亡した。焼失家屋は約27万戸。被災者は100万人に及んだ。日本政府は「士気低下」を恐れ実態を隠蔽。このため被害の全容はいまだ明らかになっていない。

 この東京大空襲を皮切りに、米軍は大都市を次々と焼き払っていった。3月12日には名古屋、13日には大阪、17日には神戸、19日には再び名古屋。ここで連続爆撃が途切れたのは、焼夷弾を使い切り製造が追いつかなかったからである。

 爆撃は4月中旬に再開された。6月からは攻撃対象が地方の中小都市にも広がり、「終戦」の前日まで続いた。原爆を除く一般空襲による死者は20万人を超えると見られている。

 実は、米軍にとって東京大空襲は「作戦は失敗、結果は大成功」という評価だった。火災をつなげて拡大するために設定した爆撃ポイントへの焼夷弾投下を徹底できなかったのだ。この夜、東京に強風が吹き荒れなければ大規模火災にならなかった可能性が高い。

 米軍が計画どおりの成功を収めたのは大阪空襲からである。神戸空襲では鋭利な鉄片が飛び散る破片爆弾を時間差で投下した。逃げ惑う人びとや消火活動にあたる人びとの身体を切り裂き、殺傷するためだ。

市民の殺傷が目的

 このように、米軍の都市焼夷攻撃は一般市民の殺傷自体が目的であった。戦時生産を支える労働力を破壊するために、住民とその生活を焼き尽くしたのだ。事実、米軍統合参謀本部が1944年4月に策定した文書は、日本の都市工業地域を攻撃する目的のうちに「死傷による労働力の崩壊」を明記している。

 空爆の非人道性は当時から認識されており、一般市民に対する空爆を禁止した「ハーグ空戦規則案」(1923年)が事実上の規範として定着していた。だが、エスカレートする軍事衝突の下で「軍事目標主義」は骨抜きにされていった。

 日中戦争に突入した日本は、中国の臨時首都・重慶に対し「抗戦意思の破壊」を目的とした爆撃を1938年から5年半に渡って行った。都市に対して継続的な無差別爆撃を行った史上初めての例である。

 重慶爆撃による死傷者は5万人を超えると推定される。一般市民を多数殺傷した爆撃は国際的な非難を浴びた。米軍はこれを日本に対する空爆の正当化に利用した。「先にルールを破ったのは日本。報いを受けて当然」というわけだ。

殺す側の論理は同じ

 東京に対する大量焼夷攻撃を指揮したカーチス・ルメイ少将は、10万人以上の市民を殺したことについて、戦後になって次のように書いている。「われわれは東京を焼いたとき、たくさんの女・子どもを殺していることを知っていた。やらなければならなかったのだ。われわれの所業の道徳性について憂慮することは、クソ食らえだ」

 このルメイに日本政府は勲一等旭日大綬章を贈っている(1964年)。「航空自衛隊の育成に尽力」したことを評価したのだという。自国民の人命に対してここまで鈍感な国は歴史上類を見ないのではないか。

 ルメイ発言の根底には、攻撃対象を対等な人間とみなさない差別意識がある。そもそも空爆は植民地統治の主要な軍事手段であった。通常は許されない空からのテロ攻撃を「未開の野蛮人に文明国の法は適用されない」と正当化した。

 この帝国主義的「伝統」を引き継いだのがイスラエルである。パレスチナ人を「動物扱い」する閣僚の暴言は枚挙にいとまがない。ネタニヤフ首相「これは文明の蛮人に対する戦いなのだ」、ガラント前国防相「われわれは人間動物と戦っているのだ」等々。

 「殺す側」の傲慢な発言は今も昔も変わりはない。80年前の日本空爆と今日のパレスチナ攻撃はつながっているのである。 (M)
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