2025年04月25日 1868号

【学研都市が“ミサイル都市”に?!/防衛省は住民説明会を行え/京都府精華町 弾薬庫の増設は許さない】

「ほうそのネット」結成

 2023年12月24日、時事通信が「京都、本州の補給拠点に 火薬庫、陸・海自衛隊共同使用―増設に102億円計上、防衛省予算」と報道した。

 京都府精華(せいか)町と京田辺(きょうたなべ)市にまたがる陸上自衛隊祝園(ほうその)分屯地の弾薬庫増設の動きを▽前年12月、岸田政権は敵基地攻撃能力保有を明記した「安保三文書」を採択▽与那国島や石垣島に自衛隊のミサイル基地建設▽大分県などで弾薬庫増設工事―の状況が取り巻く。

 周辺の京都、奈良、大阪3府県の住民は2024年3月20日、「京都・祝園ミサイル弾薬庫問題を考える住民ネットワーク(ほうそのネット)」を結成。状況を変えるために動き出した。

禁野火薬庫の大爆発

 なぜ関西文化学術研究都市の中心に、陸上自衛隊の弾薬庫があるのか。

 それは1939年3月1日、大阪府枚方(ひらかた)市の禁野(きんや)火薬庫で起きた大爆発事故に起因する。

 枚方市には戦前、旧陸軍の禁野火薬庫、枚方製造所、香里製造所の3つの工廠(こうしょう)があった。香里製造所の付近は人家も少なく、爆発事故が起こっても誘爆を防ぐ土塁の役目を果たす地形であったため、この地域に工廠が作られた。

 事故は、禁野火薬庫で砲弾解体中に不意に発火。弾薬に引火したことで大爆発が起きた。爆発音は京阪一帯に響きわたり、29回も爆発を繰り返し、炸裂した弾丸の破片は半径2キロ四方に飛散。禁野・中宮など近隣の集落にも延焼し、鎮火に2日間を要し、死者94人、負傷者602人、家屋の全半壊821戸、被災世帯4425世帯に達した。

代替で祝園に弾薬庫が

 戦時中、大阪城の東方には“東洋一の軍事工場”と言われた、土地590万u、建物70万uの旧陸軍の大阪砲兵工廠があった。

 旧陸軍の「祝園弾薬庫」は、禁野火薬庫の代替え施設として1940年に祝園山中に建設された。そして大阪砲兵工廠と結んで弾薬を移送するため、1941年には国鉄(当時)片町線と「祝園弾薬庫」を結ぶ川西側線も建設された。

 日本の敗戦により占領軍の弾薬庫となり、1950年に始まった朝鮮戦争時には、ここから弾薬類が運ばれたという。

 1958年に米軍から日本に返還されることが決まると、町民・町・議会を挙げて基地返還運動が拡がった。返還はかなわなかったが1960年2月、防衛局と町の間で『確認書』が締結された。「核兵器は貯蔵しない」「現施設の貯蔵能力(7千トン)以上は貯蔵しない。増加の場合は事前に町側と協議する」などの文言は重要だ。基地交付金も継続されていることから、『確認書』は歴史的文書ではなく内容は有効だ。

住民説明会を求める

 4月12日、ZENKO(平和と民主主義をめざす全国交歓会)関西などの20人は、ほうそのネット副代表の神田たかひろさんの案内で、祝園弾薬庫の周囲をフィールドワーク。

 参加者は「京都府立大学(農学部)のフェンスと隣り合わせに弾薬庫があるのは異常だ」「家や畑のすぐ近くに危険な基地があることを、みなさんに知らせていかないと」と、さらに危機意識を高めた。

 現場を見たメンバーは、近隣のJR祝園駅と近鉄新祝園駅の間に移動し、ミサイルと同じ長さの長大な横断幕(ほうそのネットの手作り)を掲げ、住民説明会を求める署名に取り組み、短時間で15筆を集めた。

 日本政府は、敵基地攻撃に使う長射程ミサイルの大量取得に伴い、2032年度までに大型弾薬庫130棟を建設する方針。祝園分屯地でも8棟の工事費や調査設計費が計上され、さらに6棟増設するという。

 神田さんは街頭で今日も町民へ語りかける。「祝園にミサイル弾薬が大増強される問題を知っていますか。住宅地の隣に14の弾薬庫がつくられ、敵基地を攻撃できるミサイルが大量に保管されようとしています。でも住民説明会は開かれていません。住民説明会を求める署名を集めていますのでご協力いただけませんか」

 神田さんは、このミサイル弾薬庫問題を町政に問いかけようと5月精華町議選に立候補する。





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